
💠 雅野 珀舟(みやびの はくしゅう)
1929 – 2016(享年86歳)
詩人/書画家/マンダラアートリーディング原作者
一筆に人生を映す人
1929年(昭和4年)7月21日、大阪市大正区に生まれる。
幼少期より詩と絵を愛し、生涯を通じて数多くの書画や詩を創作。
その作品の中には、現在の「マンダラアートリーディング」の世界観へとつながる原型が数多く見られる。
書くことは、彼にとって「生きる証」でもあった。
戦後の混乱期、家族を支え、働きながらも詩を書くことを決してやめず、
晩年には、不治の病と闘いながらも、高齢者としての素直な心のうちを綴った詩を世に送り出した。
昭和ひと桁、頑固一徹の精神
昭和初期の職人気質を持ち合わせた昔堅気な人柄。
どこか気難しい一面もありながら、内にはしなやかで繊細な心を秘めていた。
若い頃から仕事に誠実で、家庭では食べものの好みにうるさく、妻を手こずらせながらも、
愛情深く家族を守り続けた。
病と向き合い、詩に想いを託す
前立腺がん、心筋梗塞、腎臓病、甲状腺疾患など、幾つもの病と共に生きた晩年。
それでも弱音を吐かず、自らの心境を詩に託し、
「同じように病を抱える人やその家族の支えになれば」と作品を残し続けた。
55年の結婚生活と、人生の集大成
妻とは55年の長きにわたり連れ添い、
波乱万丈な日々をともに歩んできた。
晩年には、自らの人生を振り返りながら、はじめて素直に妻への想いを詩に綴ることができたという。
2016年、家族とともに過ごす穏やかな時間の中で静かにその生涯を閉じた。
その人生の歩みと作品は、今なお多くの人の心にあたたかな余韻を残し続けている。
珀舟バイオグラフィー
- 1556戦後~高度成長時代へ

1945年頃 ― 戦後を生き抜いた若き日々
学徒勤労動員として終戦を迎えた10代。
焼け野原の日本に希望の灯を見出し、復興から高度成長期へと向かう激動の時代を生き抜いた。
20代の頃はバイクを愛し、風を切るその瞬間に生きる歓びを感じていた。 - 1961せつ子との出逢い

1961年 ― せつ子との出逢い
大阪・道頓堀の料亭「豊楽」で支配人を務めていた頃、面接に訪れたのが後の妻・せつ子。
運命の糸が、ここから静かに結ばれていった。 - 1969和也(蓮)が誕生する

1969年 ― 息子・和也(蓮)の誕生
家族というかけがえのない存在が増えた日。
夫婦げんかも絶えなかったが、心の底では家族を誰よりも大切に思っていた。
不器用ながらも、その愛情は詩や書画に滲んでいた。 - ラベル蓮との確執を超えて伊勢旅行へ

2000年代 ― 確執を超えた父と子の旅
成人した息子・蓮との間には、長年にわたる葛藤があった。
だが、2004年に妻せつ子がステージ4のがんを患ってから、2人の関係は少しずつ変わり始める。
病を抱えた家族のため、支え合う父と息子。
やがて蓮の提案で、家族は伊勢の地を訪れた――それは、心を繋ぎなおす旅だった。 - 2015京都・洛北の旅

2013~2015年 ― 闘病と創作の日々
心筋梗塞、前立腺がんと次々に大病が襲う。
しかしその苦しみの中でも、珀舟は詩を綴る手を止めなかった。
心の叫びや希望、生きる意味を、文字に宿して表現し続けた。
2015年には「どうしても訪れたい」と願った京都・洛北への旅を実現。
それは生涯最後の旅となった。 - 2016.155年目の結婚式

2016年1月 ― 55年目の結婚式
体調が急変し、救急搬送。医師から余命3週間と宣告される中、
蓮と蓮の彼女(後の妻)sayakaは、父が遺言に記していた願いを実現するために動き出す。
――病院の一室で執り行われた「55年目の結婚式」。
家族の絆と想いがひとつとなった、人生最期の大舞台だった。 - 2016.5蓮に託したメッセージ

2016年5月 ― 遺された「始まりの書画」
父の他界後、突発性難聴で入院していた蓮のもとに、偶然届いた一枚の書画。
それは珀舟が晩年、息子に向けて密かに残していた魂のメッセージだった。
―「まだ、お前にはやるべきことがある」。この一筆は、蓮の心を奮い立たせただけでなく、
後に誕生する「リレーションマンダラリーディングアート」へとつながる、深いインスピレーションの源泉となった。
雅野 珀舟の作品から












